圧倒的睡眠欲求

この記事は人間が書いています

手にはなにも残らない

手にしたくて、結局しなかったもののことを時々考える。それらは実際に手にしたものよりも曖昧でたぶん美化されていて、不思議と記憶になんどもちらつく。

例えば、雑貨屋で見つけたイヤリング。レース編みの白い花がぶらさがっているデザインのものや、オリーブとドライフラワーのブーケイヤリング。熟考して買おうと思ったときには何処にか旅立っていた。今でも名残惜しい。

浴衣を買うときに、さんざん迷って選ばなかった白い半帯。これはお祭りでみたらし団子をこぼしてしまうと地獄を見るね、と盛り上がってしまったせいで「みたらし」という愛称がつき、妙に愛着がわいてしまって困った。実際私ほどのクソドジぽんこつが汚さないわけはねえと冷静にジャッジして、別の落ち着いた色のものを選んだ。

NICE CLAUPの花柄のワンピース。正直どんなだったかよく覚えていないのだけど、いちばんかわいいと思った柄のワンピースがそのショップ限定で、財力がないので見送ったら次行ったときにはもうなかった。覚えていないのであったとしても購入したかわからない。

ミニサボテン。ちょんと咲いた花と、陶器の器とサイズ感がとてつもなく愛らしかったが、私は規定通り水をやっていたサボテンを数日でぐずぐずに腐らせた前科があるし(なぜ?)、なにより部屋が地獄なので、インテリアショップでちんまりと鎮座するその愛らしさを再現できる気がしない。

好きなイラストレーターさんの、気づいたときにはもう期限切れだったネットプリント。日付感覚を持たずに生きるな。

記憶のなかだけの風景。練習終わりに部室から出た後の夕暮れの空や、一面の海、結局入らなかった喫茶店。友達と手を繋いで帰った冬の道。脳内再生には限界があるし、今見てもおそらく特に何も思わない。価値があるのは付随しているあやふやな思い出の方だ。

当然のことだけど、時が流れているのを感じるとなんだか唖然としてしまう。気づけば私は成人している。
思っていた大人と違う、いや、予想通りかな。年が変わっても齢を重ねても劇的な変化などなく、自分がずっと地続きだということには、とっくの昔に気づいている。そういえば人生初の振り袖は想像よりもしんどくなかったけど、脱いだあともお腹回りがじんと痺れていた。


話が逸れた。
手に入らなかったものは数多くある。正直本気でなんとか探せば、ほとんどそれらと等価の代替品や、ひょっとするとそれそのものをまた見つけ出せるかもしれない。でもそうしないだろうな、と思う。
とはいえ偶発的な再会があれば卒業よろしくすかさずかっさらうだろう。私あの映画見たことないけど。

願わくば、人との別れもこんな感じでありたいな。手には入らなくとも、美化されて、思い出に昇華され、時々ふと思い出して懐かしく思うような。
とどのつまり、今この日々のことも最終的には「あの頃、楽しかったね」とざっくばらんに評して都合の悪い棘は抜き、時々取り出して眺めたいだけなんだけどね。

まあとにかく、私はわりと、手元には落ち着かなかったもののことを考えるのが好きである。
でももうちょっと部屋をきれいにできたなら、サボテンくらいはお招きしてお茶会でも開こうかな。