圧倒的睡眠欲求

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それはそれとして病院の待合って暇

この年齢になっても、たまに日曜日はプリキュアのために8時半に起きる。
といっても全然ガチ勢じゃないので毎週追ってるわけではないし、今やってる『HUGっと!プリキュア』も本当に途切れ途切れにしか知らない。
なのでプリキュア好きを自称するほどではないけど、たまに見てはすごく感動してしまう。

例えば今のプリキュアでは、ネットニュースにもなってたみたいだけど、19話でジェンダー論に言及するような発言や思考があって、その回をたまたま見ていて、すごい、と思った。今の子供たちは、こういうメッセージを受け止めて大人になっていけるのだ。
子供の頃はよくプリキュアごっこをしていた。
要するに、彼女たちになりたかった。プリキュアとして変身して、かわいい衣装とかっこいいアクションで戦う。好きだったし、憧れの対象だった。
けど今になってプリキュアを見てみると、やっぱり幼稚園児の時とは違う視点が自分の中にある。
大人の事情を理解できるようになっているから、なにも考えず全てをただ享受するだけだったストーリー展開だとかキャラクター設定、ビジュアルや必殺技、全部に作り手の考えが張り巡らされているということを知っている。
番組がメインの視聴者として狙い定めている層を出てみると、どんな風にメイン層を楽しませようとしているのかとか、製作陣の意図が少しずつ見えてきた、ような気がするのだ。
とはいえ私くらいの年代の人たちや若いお母さん世代も視聴層として狙われているのかも。
小ネタに留まらずまさかガチで初代が出てくるなんて! 来週はかつてリアタイしていた全人類、録画してでもプリキュアを見てくれよな。みんな大好きふたりはプリキュアだぞ。
こういうの、15周年という歴史があっていいですね。当時テレビの前で夢中だったみんなが原点にして頂点だと思ってるけど、今の子はせいぜい駅の広告やCMくらいでしか知らない。年月を築いてきたのだという実感がありますね。

子供向けの番組の影響力は、誰もがわかっていると思う。『HUGっと!プリキュア』のテーマが「赤ちゃんの子育て」というものであることが明かされた時、懸念の声が巻き上がったくらいだから。
ソースはちょっと持ってこれないんですけど、「プリキュアだって子供だというのに母性を強調するのか」「子供たちに子育ては女の仕事という概念を植え付けることにならないか」という意見をTwitterで見かけました。
この不安は子供たちの価値観とアニメというか、外部からの刺激が直接的に繋がっていると考えている人が多いからかな、と。
実際に始まってみると、予想を大きく越えてプリキュアは「なんにでもなれる」ことを強調し、前向きな言葉と態度で子供たちにエールを送っている。
女の子はヒーローになれるし、男の子だってお姫さまになれる。それをこんなにまっすぐに謳い、発信し続けている。いいな、と思う。
私がそうだったように、きっと子供は提供される物語を素直に受け止める。構造を疑うということをあまり知らないから。
身近に子供がいないのでわからないんですけど、やっぱり小さいとメタ的なものはまだ理解してないんじゃないだろうか……? だからこそテレビのなかのお話は(子供がフィクションだとわかっていても)真実で、だからこそ彼・彼女らのために作られている番組は、とても細やかに作られているんだと思う、なんか推測ばっかりになっちゃってるけど。
もうプリキュアに女児向けアニメという言葉はふさわしくないのだ、と気づかされた。
そういう枠をとっぱらおうとしているものを、そういう風にはもう呼べないな。便宜上呼んじゃうかもしれないけど。


子供の時と違う視点があるって思ったのはもうひとつあって、この前の金曜ロードショーではじめて『ファインディングドリー』を見たんですけど、あれめちゃくちゃよかったね!? 泣きました。2回くらい。
実は私、『ファインディングニモ』が生まれてはじめて映画館で見た映画で、私はその時幼稚園児で、マーリンとドリーの冒険にわくわくして、魚視点で人間に怯えて、純粋に楽しんだんだけど、ドリー、昔は(あんまり覚えてないので自信はないですが)なんか間抜けだけど面白い魚としか見てなくて、なんでも忘れちゃうのがなんでかなんて考えもしなかった。
変なの、でも字が読めたりしてすごいんだな、それで終わり。
これも、純粋に映画を楽しむということができている時点で絶対に間違いじゃないと思う。
ただ、発達障害というか、単に個性です! っていう構造じゃなくて深刻な問題になっているのが理解できるようになった今だと、色んなことを考えてしまう作品だなと感動した。
キャラクターが抱える様々なハンデを解決していくんじゃなくて、どう付き合っていくかをすごく丁寧に描いている。
マーリンの視点が世間の声、という考えがすごく腑に落ちる。正直、私も映画を見ていて時折ドリーにイライラした。
けど、途中からどんどん引き込まれ、同調して、気軽に「簡単でしょ!」と言われる場面で一緒に不安になったりしんどくなったりした。
みんなができる「簡単な」ことが自分にはできない情けなさ。
ドリーができなくてごめんなさい、って何度も謝るシーン、苦しくて苦しくて泣いた。
どうやってそれを受け入れて上手に扱うか、周囲の接し方、愛情、そんなものが難しくてあたたかくて優しくて、それでも少し泣いた。
これって泣き虫以外にさして不自由がなかった頃の私には持ち得なかった感情だ。
今『ファインディングドリー』を楽しんだ子供たちは、もっと大きくなってから同じように同じものを見たとして、どういう風に受け止めるんだろうか。

今例に挙げた2作品のみならず全般的に言えることとして、その時の自分の立場やタイミングに応じて色んな見方ができるっていうのは、創作物の素敵なところだな、と感じました。というとってつけたような表現文化コースっぽい発言で終わりにします。ありがとうございました。